江戸参府ビッグウォーク余話 平戸街道を護る人々
平戸から早岐までの経路は概要計画では平戸往還(平戸街道)としていたが、平戸往還は未調査で、詳細計画では2000年に日蘭交流四百周年記念事業の一環として作られた当往還に並行している国道204号を主体とした「オランダ街道」を経路としていた。
平戸出立の直前に平戸街道の詳細が解り、当日、経路変更することにした。
幸いにも当日は「平戸街道ネットワークの会」が案内役を務めて下さったので、ルートを変更し、道の駅を出てしばらくオランダ街道を歩き、江迎から平戸街道に入ることとした。
初日に事務局の本多稲光さんから同会発行資料を一式いただいた。
江戸参府ビッグウォーク中は資料を拝読する時間がなく、すぐ郵送したので日本橋到着後初めて資料を紐解いた。
資料の中に「平戸街道」(2002年平戸街道ネットワークの会編)があった。同書は平戸街道筋の解説編。
著者の鴨川卓さんは、1999年から2003年まで同会会長をされた方で、「平戸街道は蘇る」(1998年芸文堂)、「平戸街道」(2002年共同出版)、「伊能九州図と平戸街道 chapter4 平戸街道」などを著している平戸街道研究の大家。
鴨川さんが著された「平戸街道」の序文「大自然の中に生きる平戸街道」を転載させていただいた。是非お読みください。
平戸街道を歩かせていただいただけでなく、今も平戸街道を護り続けている「平戸街道ネットワークの会」の方々に案内して頂いたことに大感謝するとともに光栄に思う。
「平戸街道」地図 縮尺 1:25,000
「平戸街道」本文
平戸出立の直前に平戸街道の詳細が解り、当日、経路変更することにした。
幸いにも当日は「平戸街道ネットワークの会」が案内役を務めて下さったので、ルートを変更し、道の駅を出てしばらくオランダ街道を歩き、江迎から平戸街道に入ることとした。
初日に事務局の本多稲光さんから同会発行資料を一式いただいた。
江戸参府ビッグウォーク中は資料を拝読する時間がなく、すぐ郵送したので日本橋到着後初めて資料を紐解いた。
資料の中に「平戸街道」(2002年平戸街道ネットワークの会編)があった。同書は平戸街道筋の解説編。
著者の鴨川卓さんは、1999年から2003年まで同会会長をされた方で、「平戸街道は蘇る」(1998年芸文堂)、「平戸街道」(2002年共同出版)、「伊能九州図と平戸街道 chapter4 平戸街道」などを著している平戸街道研究の大家。
鴨川さんが著された「平戸街道」の序文「大自然の中に生きる平戸街道」を転載させていただいた。是非お読みください。
平戸街道を歩かせていただいただけでなく、今も平戸街道を護り続けている「平戸街道ネットワークの会」の方々に案内して頂いたことに大感謝するとともに光栄に思う。
| 平戸街道 表表紙 | 平戸街道 裏表紙 |
「平戸街道」地図 縮尺 1:25,000
「平戸街道」本文
| 平戸街道の地図 表表紙 | 平戸街道の地図 裏表紙 |
平戸街道 序-大自然の中に生きる平戸街道
平成8年から平戸街道を探し始め、試行錯誤の繰り返しを経て、平成9年からは有志と共に5年間歩き続けた。先に「平戸街道は蘇る」という本を出版したが、歩く度に沿線住民の方々からの新たな情報や、幾多の新事実の発見もあり改訂の意味も含めて、平戸街道筋の解説編を発行することにした。
平戸街道は瀬戸内構造線の影響で地形の起伏が一直線になっているところが多い。地図のなかった時代に、よくぞ街道が一直線になるような地形の利用を考えついたものと感心させられる。このことは戦国時代の用兵の関係や、もっと以前の国内商業ルートや荘園経済の年貢米の搬送や、遠く遡って石器の原石の販売・購買ルート時代からの長い長い年月の経験や知恵の結実であろう。或はその間、地滑りや大洪水や地殻の大変動などの大自然の変化もあっただろうし、政治形態や為政者の統治方針、社会の変化などにより主要道の道すじは、それぞれの目的により改定され、変更されたりして近世に至る。そして、そこでも地形の隆起現象や干拓などの人為による変更が加えられたりして、山地より山麓・低地へと街道は移り、参勤交代・長崎勤番などの大部隊の度重なる通行により街道は更に整備され、直線コースと直線コースの間は曲線であるが、地形を巧みに利用した曲線で結んだ街道になっている。
従って、長い長い年月かかって出来上がった歴史の道であるから、その長い年月の間の、大自然のドラマと歴史のロマンがこの平戸街道には染みついている。その街道筋の大自然のドラマと歴史のロマンを解明することが私共歩き続ける者の使命である。また関係自治体の責任の一面でもあろう。そして平戸街道とは何かの問に迫ることである。
まず最初に、平戸街道のコースの熟知と共に長崎街道の脇街道としての役割を理解することである。長崎街道の脇街道は島原街道・諫早街道(多良海道)・平戸街道・唐津街道・秋月街道・薩摩街道その他大小の街道があって、幹線街道である長崎街道とお互いに利益や関係を共有して成り立ち、脇街道はすべてが長崎街道に集約されて、一つの樹木の如きものとして成り立っている。長崎街道から樹液をもらって脇街道の枝葉が茂り、その枝葉からそれぞれの地域の特色ある産物や地方文化を吸収して長崎街道の大樹の幹が太くなっていくという相互関係であろうと考える。平戸藩に於ては当然ながら平戸村の城下町が政治・経済・文化の中心であったが、隣接藩との地理的関係上、また交通上、早岐村も亦商業経済の要所であった。具体的には舳ノ峯番所を通行した人々の記録の古文書がこれを証明している。僅かな史料ではあるが、早岐宿の嘉布里屋・多賀屋・山本屋・紀ノ国屋・かすり屋・薬種屋などの商店への出入りが古文書に見られる。そしてこれらの商店への出入りの商人は、播州・阿州・柳川・佐賀・長崎などの遠距離の人々である。早岐宿は単なるパパママストアの集合体ではなく、西日本一円との取引をする宿場町であった。
同様のこと以上に、平戸街道と長崎街道の交点上にある彼杵宿への商人達の出入りは更に多かったことと思われる。彼杵宿こそは交通上の位置からも、商業経済上からも平戸の商人、早岐の商人、伊万里の商人などが平戸街道を通り彼杵宿へ、長崎の商人、更には西日本各地の商人達が長崎街道を通って、彼杵宿へ仕入れや卸にやってきたことは想像に難くない。大村藩の「郷村記」には「彼杵本町長さ1町37間、商家軒端を列ねて相対す。此の堀川より東を本町といい、西を金谷町といい、両町にて家数284軒あり。」・「本町堀川より金谷町内1町24間、商家78軒、軒端を列ねて相対す。」と書いてあり、大村藩・平戸藩・佐賀藩との地の利を得た地理的位置にあって繁盛していた彼杵宿が伺われる。彼杵宿のように長崎街道にあって脇街道の分岐する宿場町は、多かれ少なかれ活動の盛んな宿場町であったと思われる。
今の時代は距離よりも時間が大切である。目的地まで何時間で行けるか。乗り換えはどうなっているか、というように時間が旅や行動を左右する時代である。ところが江戸時代は歩くのが原則で、駕籠・馬などは限られていて、江戸時代の街道にとって最も利用価値の高いものは「一里塚」と「宿場町」である。大名行列にしても一般大衆や商人達にとっても、旅には距離の目安と宿場町の存在が何よりも必要であった。平成11年3月に、平戸街道筋のロータリークラブの皆さんが街道復元の第一歩として、その一里塚の必要性をご認識下さって、平戸街道全線に亘って一里塚の碑や駕籠立場跡の碑を建てていただいた。沿線の人々及び長崎・大村・諫早・島原・武雄などからの街道探訪者には、歴史の道を十分に実感していただき、案内した平戸街道ネットワークの会員は大いに面目を保ったことであった。
最近はこれに加えて「道しるべ」の建立が進み(平戸ロータリークラブ・江迎観光協会・北松浦ロータリークラブ・平戸街道ネットワークの会・佐世保ロータリークラブによる)、日ノ浦より江迎町・佐々町を通り佐世保市吉岡一里塚まで、俵一里塚から藤原一里塚まで平戸街道全区間の1/2が完備(約125本の道しるべ設置)された。そのご厚意に街道を歩き続ける者としては感謝と敬意の念で一杯である。この道しるべが全線に亘って完成した暁には平戸街道は全域に蘇り、自分達の祖先が何代にもわたって歩いてきた道を歩いてみようという気概が必ず湧いてくると信ずる。歩きながら次々と目にとまる「道しるべ」を見ることによって、地元の人びとは平戸街道の存在を再認識するであろうし、遠来の探訪者も感嘆の声を発するであろう。私は佐賀県北方(焼米宿)より成(鳴)瀬宿を経て塩田宿までの長崎街道を歩いた折、橘町史談会の名で多くの「道しるべ」に出会い感心したことを今だに覚えている。長崎街道の東彼杵町でも「道しるべ」が数多く建ててあり、心が和み、街道を歩いているという実感が湧いて勇気を与えてくれた。「道しるべ」は街道の道案内人であるが、心の「道しるべ」でもある。歩いていて、街道の道しるべに出会う毎に魂に活力と探究心を与えてくれる。
また、諫早街道(多良海道)では、とても歩き難い大藪や大雑草に掩われ、道なき道になっている所を有志の方々により綺麗に歩き易いようにしていただいた時には感激で涙したこともあった。平戸街道でも川棚地区で、たびたびこのようなことに出会い、歴史の道の存在と保護・保存に、いたく感激を覚えたものであった。そこで私共、平戸街道ネットワークでも大藪・小藪・竹林などの藪払いに時々出動しているが、沿線の自治体でも時折、歴史の道を整備して頂けたら大変有難いと思っている。
最後に、街道はコースの熟知と整備及びその地形的利用、歴史的成り立ちの認識を深めることにより、現代に蘇ってくるものである。それには先ず歩いて街道の実状を理解することである。このことが歴史を秘めた平戸街道を共有しているという意識を育み、街道自治体の精神的連帯感となり、地域起こし事業にも弾みがつくものと思う。また街道自治体住民の街道に対する親近感も高まり、各種行事・交流・社会教育・学校教育にも有効に作用するものと思う。私たちは過去のドラマやロマンが染みついている平戸街道・先人たちが残した文化遺産である平戸街道の保存と活用を訴え、山間地や村落や市街地にいつまでも生かし続けたいと念願している。歴史を共有しているという意識は地域社会の魂となり、活動の根源となる。
今や日本全国が数年前から街道ウォークや街道探訪のブームの中にある。私共は市民の皆さんと共に時代に乗り遅れないように、いやいや時代に先駆けて地方の歴史の道は地元で育てていこうと決意を新たにして、平戸街道の啓蒙の旅を毎月続けている。平成14年4月で平戸街道始発点の田平町日ノ浦より東彼杵町彼杵宿中央の思案橋まで15里28町58間4尺8寸(伊能忠敬測量)(約62km)を5回歩いたことになる。これからも一里塚・駕籠立場・宿場町のみならず、歩く人に元気を与えてくれ、街道を守ってくれる「街道みちしるべ」に挨拶の声を掛けながら平戸街道の啓発の旅を永劫に続けたいと決意を新たにしている。
平戸街道ネットワークの会
顧問 鴨川 卓






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